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弊社は昭和21年(1946年)、原爆にて焼け野原となった広島市中区にて創業しました。戦後の復興需要や住宅需要により徐々に事業を拡大し、米栂・米松の丸太製材を開始しました。主に小角類を関東・九州・近畿・中京地区へ販売しておりました。平成以降はロシア赤松の製材を開始し、3樹種で垂木や野縁、根太などの小割物の製材に特化しました。
同時期にヨーロッパ材などの現地挽商品の取り扱いも開始し、平成19年(2007年)、県営吉島水面貯木場(現在のボートパーク広島)閉鎖のため広島県廿日市市木材港北へ移転することとなり、丸太製材からは撤退し、原板の再割加工ライン工場として装いを新たにしました。
現在は原板再割加工による自社製品や現地挽商品の流通販売、原板再割加工などの受託、不動産賃貸を主に行っております。
弊社は昭和21年(1946年)、原爆にて焼け野原となった広島市中区にて創業しました。戦後の復興需要や住宅需要により徐々に事業を拡大し、米栂・米松の丸太製材を開始しました。主に小角類を関東・九州・近畿・中京地区へ販売しておりました。平成以降はロシア赤松の製材を開始し、3樹種で垂木や野縁、根太などの小割物の製材に特化しました。
同時期にヨーロッパ材などの現地挽商品の取り扱いも開始し、平成19年(2007年)、県営吉島水面貯木場(現在のボートパーク広島)閉鎖のため広島県廿日市市木材港北へ移転することとなり、丸太製材からは撤退し、原板の再割加工ライン工場として装いを新たにしました。
現在は原板再割加工による自社製品や現地挽商品の流通販売、原板再割加工などの受託、不動産賃貸を主に行っております。
弊社は昭和21年(1946年)、原爆にて焼け野原となった広島市中区にて創業しました。戦後の復興需要や住宅需要により徐々に事業を拡大し、米栂・米松の丸太製材を開始しました。主に小角類を関東・九州・近畿・中京地区へ販売しておりました。平成以降はロシア赤松の製材を開始し、3樹種で垂木や野縁、根太などの小割物の製材に特化しました。
同時期にヨーロッパ材などの現地挽商品の取り扱いも開始し、平成19年(2007年)、県営吉島水面貯木場(現在のボートパーク広島)閉鎖のため広島県廿日市市木材港北へ移転することとなり、丸太製材からは撤退し、原板の再割加工ライン工場として装いを新たにしました。
現在は原板再割加工による自社製品や現地挽商品の流通販売、原板再割加工などの受託、不動産賃貸を主に行っております。